ありきたりなあれこれ

脈絡のない話です

好きのハードル

絵を描くのは好きだけど、上手じゃない。

でも、下手は下手でもすごく下手くそなわけでもなく。
笑えるほど味があるわけでもなく、中途半端。

自分の絵を見てると
いつも割と面白いこと言ってる芸人が生放送でスベってしまった瞬間を目撃した時のような、
いたたまれない気持ちになる。

狩野とか出川とかじゃないやつ。
いじることもできなくて恥ずかしいだけのやつ。


でも、ペンと紙があったら無意識に何かを描いてたりして。
教科書の落書きみたいに。

いつからか全然描かなくなった。



楽しかったら、好きだったら続けていればいいのに。
気づけば絵だけじゃなくて、他の色々なことも出来なくなっていた。

どうせやったって、大したレベルにはならないし。
とか
それで食べていけるわけじゃないし。
とか。


別に平均よりはるか上の位置にいかなくても
職業にしなくても
みんな、ただ気の向くままにやってることっていっぱいあるように思う。


まわりには多種多彩な人が多く
自営業、会社員、専門職、主婦…
という肩書きもありながら
センスいい音楽やってたり、素敵な写真撮ったり、英語ペラペラだったり、
料理がめちゃくちゃ上手だったり、
絵だって心奪われるくらい素晴らしく描ける人たちがいて。

それこそ素人の私からしたらプロかよっていうレベル。

でも、そうではないらしい。
あくまで趣味というか、個人の領域でやってる。


かっこいいし、すごいし、
でも、しんみりした気持ちにもなる。
それこそ出川とか狩野とか見てたほうがだいぶ楽になるような。


だって、仮に私が全力投球したって
誰かが片手間にやってることの足下にも及ばないんんだから。

嫉妬とか悔しさとは違って、
途端に心が折れてしまうというか。



で、気付いたんだけど

純粋な興味とか好奇心で見つけたもの。
好きだなって思えたもの。

これらはいつも、途中から
自分がどう感じて取り組むかより
どう評価されるかが重要になっていってしまう。

だから周りの尺度とか巧拙が気になるし、全体の中での立ち位置にとらわれちゃうんだろうな。

内側からむくむくと芽生えた好奇心の種が、外の世界に触れ始めるとへたって。
いつもしなびてて。



昔、父の前では何かに真剣に取り組んでいる姿を見せたくなかった。
どんなことでもある一定の基準に達してないと、辛辣にこき下ろされたから。

一番身近な場所から否定されるのが嫌で、恥ずかしくないものを選ぶようになって。
見込みがなさそうなものから次々に淘汰されていった。

もちろん恵まれた才能なんて持ち合わせてないんだから、ほとんどのものに“見込み”なんてあるはずない。
期待のできないものをどんどん削ぎ落としていくうちに、当たり前だけど何も持たない自分だけが残った。


私はなんて特色のない人間なんだろう。
と、よく思っていた。


多分、みんなそうなんだろう。
ある一部の天才とか卓越したスキルを身に付けた超人以外は
「ただ好きだから、楽しいから」
やってて
続けてて
それが自然に評価されたりしてるだけ。

音楽も写真も料理も、表現の手段だったりもすれば、単に結果として感性がアピールできてるだけだったりする。

だから彼らはプロじゃなくても、
それだけに全力を注げる環境が整っていなくても、
構わないわけで。

一分でも一秒でも
自分の好きなものに触れている、
その時間が大切なんだから。



うん。

嫉妬じゃないと書いたけれど
だいぶ、嫉妬している。

多分、すごいなと感心できるレベルにいるから羨ましいんじゃない。
それくらい好きなものに出会えている事実、
自分の好きなものをちゃんと知っているという事実に、
とてもとても憧れる。



父がある程度認めたり褒めてくれたものは、それなりに頑張った。
勉強、クライミング
少ない。

それだって、ほかの物事に比べたらちょっと良いかなっていうくらいで。
どっちも、手放したら終わった。
もっともっと一生懸命やってたら違う結果だったのか。

結局は努力と、何より執着が足りなかったのだろう。




今、一番そばにいる夫は
とにかく何でもやってみれば?っていうタイプ。

別に何にもなれなくても
いいじゃん、

って。
確かに。


考えると、
人から賞賛されたり、周りよりずっと飛び抜けた存在でありたいっていうのは
多分
現在の自分と全然違うものになりたい
って気持ちのかたまりだったんだと思う。

そういう下心というか打算があるから、
いつも楽しめなくなっていた。

そして物事真剣に取り組んでるとわかるのだが、
邪な意思では突破できない壁が必ず出てくる。
そこを超えられるのってやっぱり単純に
楽しいとか好き、っていう自分の内側から始まった原点に返ってみることだったりするわけで。


もうだいぶそういうことから遠ざかってるけど、
過去何かに打ち込んだりした経験から
そんな学びを与えてもらったこと、たまに思い出したりする。


今の私じゃ、壁の前にもいけない。
だって、始めないから。
純粋な興味の芽吹きを無視してる。
それってとても悲しい。


でも、もう何者にもならなくていいんだと思ったら、なんか色んなことをやってみたくもなる。

もうすぐ30になるのにこれといって特技もなく、仕事もしてないし、中身も見た目も誇れるものもないけど
そんな私でもいいと言ってくれる家族がいるせいかもしれない。


いい加減自分に期待しすぎるのももう終わりにしよう
っていう良い意味での諦めもある。


とりあえず暑くても寒くても、悲しくても嬉しくても
帰る場所があって文句や愚痴を言える人がいて。
私じゃなきゃダメだっていう仕事を与えてくれた娘もいて。

別にこのままでいいんだって心から感じてから、
何も気負わずに、評価もまわりのレベルも関係なく
やってみたいと思うことが増えた。


その中に、勉強とクライミングもあって。


だから、きっと、全部父のせいじゃないんだな
とも、思えた。
良かった。

少なからずちゃんと自分の意思があって、手をつけて、勝手に諦めたり投げ出してたんだなぁと思うと
そっちのほうがずっと救われる。




こないだの休みの日、夫に連れていってもらって
スケッチブックと色鉛筆を買いに行った。

一番安い、小さな冊子と
そんなに種類も必要ないのでとりあえず4色だけの鉛筆。


何かを目指すわけでも、追われるようにするわけでもなく、
仮にそうしたくてもできない環境で取り組めることは、
本当にこじんまりとしている。
今の私には。

でもそれがちょうどよくて、心地よくて、嬉しく思えてきたりする。


壮大な作品なんか作れないので、まずはそばにあるものからスケッチしてみようかと。
大事なものを描くにはそれで充分な道具たち。

最初の一ページは娘と夫にした。 


なかなかうまく出来て満足してたら、早速テーブルの上で何らかの水分を含み
一部シワシワになってたという結末。

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