ありきたりなあれこれ

脈絡のない話です

片手のフリー

ライミングをやっているけど
なんとなく
フリークライミングの“フリー”ってどういう意味なのかと。


確保用具こそ使用するものの、基本的に自己の技量や体力で岩を登りきることから
フリーと名が付いた、らしい。
何も使わず、何も頼らず。
なんもない、っていう、フリー?
正しいかは不明。

フリーという言葉について考えていた。

個人的に『自由』という意味のイメージが強かったけど

シュガーフリーとか
タックスフリーとか

そういえば
あるものを省いたり、免除…など

無、っていうことでもある。
ない。ということ。

そうか自由って、確かになにも無いのと同じかも。





子供の頃って、大人は自由で良いなと憧れたりする。

自由であることには責任が生じるんだよ、と親や周りからはよく言われていたけど
早く大きくなって、自分の意思で行動し、好きなことを好きなだけしたいと思っていた。

うまい棒大量買い、とか
フルーチェを分け合わずひとりでボールごと食らう、とか
好きな漫画を全巻一気に購入、とか

そういう幼少のささやかな野望ももちろん。

成長してからも

やりたくない宿題をやって、
受けたくない授業を聴いて、
理不尽な規則に従わされる


自分が望んで始めたことなのに
段々苦痛になってきた私は、大人になれば縛りだらけの日々から抜け出せると期待していた。
少なくとも今よりは自由がある気がして。



気付いたら何かする時に保護者の了承が必要なくなり、
ある程度のお金と行動する体力があれば
やりたいことは簡単にできるようになった。

行きたいところに行って、買いたいものを買って
自分の居たいところを居場所にする。
大人ってそういうものだから。



でも
制約がなくなり、せっかく自由になったのに
意外に何もできない自分。
全然大人になれた気がしない自分。



確かに自由で
だけど、
そうだ。何も無かったんだ。
と、今になってわかる。



何も持っていないということは、
空いている両手でこれから沢山掴んだりできるということ。


でも同時に、手ぶらな自分が浮き彫りにされて
不安の方が勝ってしまった。
スカスカ。



きっと枠や縛りがあった頃、
嫌でも何か課題や負荷を持たされて
大人にイライラしながら
混沌の中で悩んだりしてた頃、

あのころが一番、自分のことだけを考えられて
自分に理解を深められる時代だったと思う。

やりたくないことをやりながら、
まわりと一緒にバカやったり怒られたり傷付いたり努力したり。

何で宿題をしなきゃいけないんだろう、
何で試験を受けなきゃいけないんだろう、
何で同じ服を同じ着こなしで毎朝着なきゃいけないんだろう、、、
フツフツと思いながら。

今考えると
揉まれたり反発していくその繰り返しの間で
丸腰の自分で生きていく力をつけられたんじゃないか。

自由を手にする前の、
貴重で、必要な時間だった。



私はそれを放棄したから、
“無い”ところから作り出すこともできず
“無い”自分を耐える強さもないままで。



窮屈な縛りだけ取り払ってどこへでも動けるようになった大人の私が行く先は
結局自分の意思のようで意思じゃなく、
誰かや何かから、与えてもらえそうなところ。

縋ったり頼ったりするしかできなくて。
これまさに乞食根性。

あんなに望んでいた自由とは程遠かった。




「フリー」な私
はずーっとついてまわり
何にも無いという現実と、
今度はそれを持て余す状態がしばらく続いて。


結構長かった。
あほだった。

と、しみじみしてしまった。





今はどうか。
私は大人で、自由で。
やっぱり何も無く。


でも、ある部分では縛りも生まれた。
つまり持ちものができた。
月並みだけど家族だったり。


前より強気で、そして気楽でいられる理由はそこなのかもしれない。

今日も明日も
空いてる片方の手で
欲しいもの、行きたい場所…
色々探して探して
そして不自由さに対して、また愚痴ったり不満に思ったりしてるんだろうなぁ。

両手が使えた時よりずっと貪欲になっているから皮肉。



あんなに望んでいた100%の自由はないけど、まったくの無でもない。


これくらいがちょうど良いのかななんて思う。
思えるようになった。



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もう一方の手にいるひと。

小さすぎる娘にとっての枠は、今はまだ私。

これから先広い世界に出て
嫌というほど何かに縛られたり、理不尽さに不満を感じたりするのだと思うと
それも、その先の自由を謳歌するために大切な過程なんだと教えてやりたい。


きっと、うまくは伝わらなくてもどかしいんだろうな。

手紙のかわり

昔いろんな人から手紙をもらっていて、
実家に帰る度に再び手に取ったりしていた。

ちゃんと読んだはずなのに、覚えてないものがほとんどで。
当時は、本当の意味では受け取ることができなかったんだなぁと改めて感じる。


素直になれず腐っていた過去より
こうやって思い出す機会がなければ、人からの気持ちをなかったかのように生きている現在の自分に、ちょっと哀しくなった。


もう一度目を通してみると
このままそっと大事にしまっておこうと思うものもあれば、
間に合わなくても返事を書いてみたいと思うものも少しだけあった。


どれが特別とかじゃなくて
どっちもぴったり同じくらいの重みで、大切な手紙なんだけど。


可能な人には、自分の気持ちを綴ってみることにした。



久しぶりに字を書くと、
スマホでカチカチ打つのとは違う。
何かが違うけど、でも何だろう。
って思って。
だんだんわかっていく気がしたのは、

頭に浮かぶひとりの“誰か”のことを思って気持ちを表そうとしてるかどうかの違いなのかなぁって。



SNSやこういうブログなどで
ただただ自分の思想や理念、感想を
好きなだけ自由に公開できる機会はかなり増えた。

LINEだってメッセンジャーだって利用するけど、
言いたいことを縛りなく垂れ流しできるツールが増えたおかげで
一対一で人と向き合う時間はずいぶん減った。
少なくとも私は。


顔の見える誰かと対峙するのは、結構面倒くさいことも多くて。
こんなこと言ったら気分害すよな
腹立つかな、わがままかな
自慢って思われるかな
とか。

伝え方によっては意図せず傷付けたり傷付けられたりするし、
自分を曲げたりしないと丸く収まらなかったりもする。

結果、
相手を誰か指定しないで主張をすることがすごく増えた。
自分自身もだし、まわりでもよく見かける。

率直な意見を臆せずに書き、
これを読んで、自分の考えを知って、
それでもついてきたいと思える人はついてきて。
嫌われてもかまわない。
と、心のままを明け透けに語る。

媚びない。
迎合しない。

自分を殺して不自然に歪んでいくよりはいいし、必要だとも思う。


ただそれが続くと、
それだけになってしまうと、
なんだかとても淋しく、つまらないものなんだと感じるようになった。

本当は
不満や怒りも
こんなに楽しい!幸せだ!っていうアピールも
日々思うことや感じることを主張するそのほとんどは、
しっかり紐解いていくと
漠然とじゃなくて、そんなに大人数じゃなくて、
ちゃんと伝えたい人が存在してる気がした。
具体的な誰か。


そこから逃げてしまってた部分がある。


相手を慮りつつ、自分の気持ちもうまく伝えるというさじ加減は人によって様々で
まさに面倒だし、もどかしくて放り投げたくなる。
勝手に言っとくから聞きたい人だけ聞いて!っていう方が楽。

でも結局は努力したくないだけなんだと。



今のネット社会が与えてくれたものは大きくて、
疎遠になっていた人や見ず知らずの人との間に新しい繋がりをもたらしてくれたり、日常も豊かになったし
確実に世界は広がった。
それはけして、薄っぺらくなんてない。

けど
大衆の中でありのままの姿を示してのびのびと居続けること
より
ひとりに対し誠実であること
は、昔よりずっと、難しくなったのかもしれない。

良くも悪くも、個人との距離も広がったというか。






誰かに向ける
誰かに届ける

という苦労。
と、その大切さ。



カリカリと文字を書きながら、そんなことを考えてた。
たとえ同じような内容でも、この便箋に触れてくれるただひとりの人のことを考えて出てくる言葉は
きっと実体のないものや漠然とした対象では生まれてこない気がする。



長い時間をかけて出した手紙には、
書き上げただけで満足するような達成感があった。


一方的に主張を炸裂させて発信した宛先のないものの方が、
よっぽどまわりの反応が気になったりするから不思議。


そして、思いがけず返事が来た時はとても嬉しかった。
私が正直でいたら、相手も正直を返してきてくれる。

必ずしもそうじゃないというのが、
自分以外の他人にガチでぶつかるのを避けたくなる所以でもあるけど…

それでも替え難いものがあるから
やっぱり省いちゃいけない。


なるべく、顔の浮かぶ誰かに向けて気持ちを表していくことから遠ざからないように。



とはいっても、
常に対他人にしか思いの丈をぶつける手段がなかったとしたらそれはそれで辛いし、
思うままに心境を吐露する場所も必要だと感じる。
多分、どっちが良いとかじゃないんだろう。


ブログを始めたのは、そういうふたつの気持ちから。

もちろん一対一とは真逆の、基本はひとりよがりになってしまうけど

書けない手紙を書くようなことがしたい。



頭の中でぐるぐる浮かんだり、感じたりしたことって

よく「あーあの人だったらわかってくれるかも」
とか、あの人に伝えたい、
と、いきなり思ったりする。

家族や親しい人ばかりじゃなくて、
今はあまり親交がなかったり
全然会えない人だったり。
昔から特に仲良かったわけでもない人とか。
本当に様々。


ただ、花火みたいにぽっと出てすぐに消えちゃうんだ。
その人の顔も気持ちも。

そういうのに対し、逐一手紙は書けないよなぁと。





もらった返事の返事も、延々と続いたら負担になるかも?と考えたりして
書きたいけどすぐには書けないし

今はまだ渡せない人もいるし、
もう二度と届かない人もいるし。
 


封筒に入れて相手に届ける、そのハードルは相変わらず高いまま。
そんなにじゃかじゃか出せない。
だからこそいいのかもしれないけど。


手紙になるひとつ前の部分って、いっぱい溢れてるのに。

なんとなくもったいなくて、
留めておきたい気がして。



そんなわけで、その代わりというのも変だけど
本当に脈絡のない雑記の中に
たまに、誰かを思い浮かべて書いたりしている。


 
当然一方的だし、宛先もただひとりなわけじゃないし、
目にした人の心にひっかかってくれたらいいなという期待もこめた
ずるい手紙たち。



読んでくれた人がいたらありがたい。




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ちょっと前にやってたドラマに、出てきそうな一枚。
おっ、と思って撮った。だいぶ古い話。

送ろうとした人がいたんだけど、結局タイミング逃してなんだかんだでできず。

そもそも特にこれといった思い入れもない写真で
食べる前の食事と同じ、
こんなのあったよ、的な。

送らなかったというのは、そういう小ささというか軽さなんだろう。


どうしても伝えたかったわけじゃなく、
今届けたいわけじゃなく、

  
これ撮ったとき、ふと教えたい人が浮かんだりしたっていう気持ち。
は、とっておこうかなと。


やっぱり自己満だ。

好きのハードル

絵を描くのは好きだけど、上手じゃない。

でも、下手は下手でもすごく下手くそなわけでもなく。
笑えるほど味があるわけでもなく、中途半端。

自分の絵を見てると
いつも割と面白いこと言ってる芸人が生放送でスベってしまった瞬間を目撃した時のような、
いたたまれない気持ちになる。

狩野とか出川とかじゃないやつ。
いじることもできなくて恥ずかしいだけのやつ。


でも、ペンと紙があったら無意識に何かを描いてたりして。
教科書の落書きみたいに。

いつからか全然描かなくなった。



楽しかったら、好きだったら続けていればいいのに。
気づけば絵だけじゃなくて、他の色々なことも出来なくなっていた。

どうせやったって、大したレベルにはならないし。
とか
それで食べていけるわけじゃないし。
とか。


別に平均よりはるか上の位置にいかなくても
職業にしなくても
みんな、ただ気の向くままにやってることっていっぱいあるように思う。


まわりには多種多彩な人が多く
自営業、会社員、専門職、主婦…
という肩書きもありながら
センスいい音楽やってたり、素敵な写真撮ったり、英語ペラペラだったり、
料理がめちゃくちゃ上手だったり、
絵だって心奪われるくらい素晴らしく描ける人たちがいて。

それこそ素人の私からしたらプロかよっていうレベル。

でも、そうではないらしい。
あくまで趣味というか、個人の領域でやってる。


かっこいいし、すごいし、
でも、しんみりした気持ちにもなる。
それこそ出川とか狩野とか見てたほうがだいぶ楽になるような。


だって、仮に私が全力投球したって
誰かが片手間にやってることの足下にも及ばないんんだから。

嫉妬とか悔しさとは違って、
途端に心が折れてしまうというか。



で、気付いたんだけど

純粋な興味とか好奇心で見つけたもの。
好きだなって思えたもの。

これらはいつも、途中から
自分がどう感じて取り組むかより
どう評価されるかが重要になっていってしまう。

だから周りの尺度とか巧拙が気になるし、全体の中での立ち位置にとらわれちゃうんだろうな。

内側からむくむくと芽生えた好奇心の種が、外の世界に触れ始めるとへたって。
いつもしなびてて。



昔、父の前では何かに真剣に取り組んでいる姿を見せたくなかった。
どんなことでもある一定の基準に達してないと、辛辣にこき下ろされたから。

一番身近な場所から否定されるのが嫌で、恥ずかしくないものを選ぶようになって。
見込みがなさそうなものから次々に淘汰されていった。

もちろん恵まれた才能なんて持ち合わせてないんだから、ほとんどのものに“見込み”なんてあるはずない。
期待のできないものをどんどん削ぎ落としていくうちに、当たり前だけど何も持たない自分だけが残った。


私はなんて特色のない人間なんだろう。
と、よく思っていた。


多分、みんなそうなんだろう。
ある一部の天才とか卓越したスキルを身に付けた超人以外は
「ただ好きだから、楽しいから」
やってて
続けてて
それが自然に評価されたりしてるだけ。

音楽も写真も料理も、表現の手段だったりもすれば、単に結果として感性がアピールできてるだけだったりする。

だから彼らはプロじゃなくても、
それだけに全力を注げる環境が整っていなくても、
構わないわけで。

一分でも一秒でも
自分の好きなものに触れている、
その時間が大切なんだから。



うん。

嫉妬じゃないと書いたけれど
だいぶ、嫉妬している。

多分、すごいなと感心できるレベルにいるから羨ましいんじゃない。
それくらい好きなものに出会えている事実、
自分の好きなものをちゃんと知っているという事実に、
とてもとても憧れる。



父がある程度認めたり褒めてくれたものは、それなりに頑張った。
勉強、クライミング
少ない。

それだって、ほかの物事に比べたらちょっと良いかなっていうくらいで。
どっちも、手放したら終わった。
もっともっと一生懸命やってたら違う結果だったのか。

結局は努力と、何より執着が足りなかったのだろう。




今、一番そばにいる夫は
とにかく何でもやってみれば?っていうタイプ。

別に何にもなれなくても
いいじゃん、

って。
確かに。


考えると、
人から賞賛されたり、周りよりずっと飛び抜けた存在でありたいっていうのは
多分
現在の自分と全然違うものになりたい
って気持ちのかたまりだったんだと思う。

そういう下心というか打算があるから、
いつも楽しめなくなっていた。

そして物事真剣に取り組んでるとわかるのだが、
邪な意思では突破できない壁が必ず出てくる。
そこを超えられるのってやっぱり単純に
楽しいとか好き、っていう自分の内側から始まった原点に返ってみることだったりするわけで。


もうだいぶそういうことから遠ざかってるけど、
過去何かに打ち込んだりした経験から
そんな学びを与えてもらったこと、たまに思い出したりする。


今の私じゃ、壁の前にもいけない。
だって、始めないから。
純粋な興味の芽吹きを無視してる。
それってとても悲しい。


でも、もう何者にもならなくていいんだと思ったら、なんか色んなことをやってみたくもなる。

もうすぐ30になるのにこれといって特技もなく、仕事もしてないし、中身も見た目も誇れるものもないけど
そんな私でもいいと言ってくれる家族がいるせいかもしれない。


いい加減自分に期待しすぎるのももう終わりにしよう
っていう良い意味での諦めもある。


とりあえず暑くても寒くても、悲しくても嬉しくても
帰る場所があって文句や愚痴を言える人がいて。
私じゃなきゃダメだっていう仕事を与えてくれた娘もいて。

別にこのままでいいんだって心から感じてから、
何も気負わずに、評価もまわりのレベルも関係なく
やってみたいと思うことが増えた。


その中に、勉強とクライミングもあって。


だから、きっと、全部父のせいじゃないんだな
とも、思えた。
良かった。

少なからずちゃんと自分の意思があって、手をつけて、勝手に諦めたり投げ出してたんだなぁと思うと
そっちのほうがずっと救われる。




こないだの休みの日、夫に連れていってもらって
スケッチブックと色鉛筆を買いに行った。

一番安い、小さな冊子と
そんなに種類も必要ないのでとりあえず4色だけの鉛筆。


何かを目指すわけでも、追われるようにするわけでもなく、
仮にそうしたくてもできない環境で取り組めることは、
本当にこじんまりとしている。
今の私には。

でもそれがちょうどよくて、心地よくて、嬉しく思えてきたりする。


壮大な作品なんか作れないので、まずはそばにあるものからスケッチしてみようかと。
大事なものを描くにはそれで充分な道具たち。

最初の一ページは娘と夫にした。 


なかなかうまく出来て満足してたら、早速テーブルの上で何らかの水分を含み
一部シワシワになってたという結末。

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電車にさようなら


公園で娘を抱き上げてる時に、ちょうどすぐ先の線路に電車が通って。

目を奪われてる娘の手をとって、バイバーイとやってみる。

中の人の姿はよく見えなかったけど、あーなんだこれ。
私も乗客だった時、こんな場面見たことあるな、って思った。



結婚して子どもが産まれて
今はほとんど電車に乗らなくなった。

最近になって穏やかになってきた生活だけど、
昔は常に息苦しく、むず痒く生きていた気がします。

ペーパードライバーで、移動手段はもっぱら電車やバスの頃。


楽しそうにしててもいつも息が詰まりそうな気分でした。
いや良いことも嬉しいことも、ちゃんと沢山あったんだけど。


どんな環境にいても途中で違和感がむくむく出てきて、
居心地悪くなる。


仕事も趣味も人間関係も、
基盤がないし、なんとなく作りたくない。


多分過去に囚われすぎてて。

決定的に後悔している出来事が拭えないせいだと思ってたけど、

今考えればその挫折そのものより
心にぼこっとしたシコリを自覚したままに
ヘラヘラ毎日やり過ごしてる自分が嫌だっただけ。


好きになれない私自身が主人公の、綿毛のように軽い人生は
時に楽しくても、
面白くても、
幸せを感じても、
どうやってもやっぱり好きにはなれず。

とにかくだいぶ、もやもやしながら生きていた。


 
他人といたり、ポジティブな空間にいる時は忘れてても
ひとりになった時にふと、呆然とするくらい虚しく。


電車に乗りながら
これからどこかに行く時も、
どこかから帰る時も、

音楽聴いたりメール返したりするのをちょっと止めて
外の景色ぼけーっと眺めたりして

トンネルに入って突然窓に映る自分の顔まじまじと見つめるハメになって
うわーぶっさいくだなーとか軽くショック受けてる、

そんなひとりの時間にほんのり本音が出てきて



あーなんかもう全てがどうでもいい。
投げ出したい何もかも。ぜーんぶ。


って思ったりしてた。
ぶっさいくな顔で。


目的地に着いたら誰かはいるし、
家に着いたらご飯食べたりテレビ観たりして。
朝起きたら仕事とか遊びとか
どこかに行こうとするし、帰ってくるし。

そういうぐるぐるの繰り返しの中。
自分から進んで入っている渦の中。


いつでも、なんの未練もなく断ち切れる気がしてた。
なんでそれができないんだろ。



線路に飛び込むとかそういう深刻な方向じゃなくて
死にたいとか思ったこともないけど、


このままずっと電車に揺られて一生降りたくないなー、とも
逆に今この瞬間にブチっと色んなことが終了してもいいや、とも感じる。

全てのことが非常に面倒くさく
どうでもよくなる時間がとても、とても多かった。


そんなかんじで、がたんごとん電車に揺られてた頃。




窓の外に、手を振ってる親子いたなぁ。



その時、
幸せそうでいいな。
とか
絶対自分はあんなふうにはなりたくない。
とか思ったわけじゃなく。
そんな話じゃなくて。


これといった感想もなく
ただただ私とは無縁な世界だな、と眺めていた気がする。風景のように。

たぶん死んだ魚みたいな目をして、ぶっさいくな顔で。




その瞳に映る、赤ちゃんを抱いてこっちに手を振るお母さん。



に、私はなった。


あの時、1ミリだってそんなこと思えなかったのに。

賞味10年くらいの隔たりが、長いのか短いのかもうさっぱりわからなくなってくるけど。




そうそう、
いつも現時点の自分じゃ到底想像つかないような未来に生きてたりするんだなって。

これから先も、どんなところに自分がいるのかってわからない。
究極、明日死んでしまうかもしれないし。


だからいくら頑張っても絶対、
過去にも未来にも生きれない私達には
今しかなくて。


あとから悔やんだりすることのないように
丁寧に慎重に進めていったり、
時には必死で身を削るように突っ走ってみたり、

人それぞれなんだろうけど色んなやり方で
大事なことや必要なことを見落とさないようにしてくほかないんだろう。 


なんて、思う。


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娘のつむじと、去っていく車両が目に入るとなんとなく切なく。
しばらく見送った。




あの電車の中にもし自分がいたとして
当時の私に言いたいことを考えてみた。

けど、あまり思い浮かばない。


  心配しないで!いつかちゃんと幸せになれるよ、的なことも違うし。


 早く色んなことに気付いて、もっと楽に生きてね。
っていうのも、
近いようで、しっくりこない。


結局なにも言えない。


その電車は必ず着くから降りるしかないんだよ

くらいしか。

でも、言われなくてもわかるだろうし。




センチな物語っぽい、梅雨の晴れ間のひとときに
親子して蚊に刺されすぎて悲惨。